こちらは覚念寺ほほえみ法話でございます。3月も半ばを迎え雪も溶け、日に日に暖かくなっていくのが感じられる今日この頃ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 

私は今月24日で結婚一周年を迎えます。時の流れは速いもので、1年経つ今日この頃、一年前は何をしていたのだろうとか、大学時代を思い出すことがあります。その中でこんな思い出がありました。

 

大学の一回生のときに友人にこんなこと言われました。「南無阿弥陀仏って唱えて極楽にいけるって言われても、本当に救われるのか」と言われ、その時はそういうものだと流していたのですが、今考えればすごく深い質問だと思いました。私自身生まれたときからお寺という環境で育って、手を合わせて「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽にいけるんだよって教えられてきたから何も今まで疑問に思うこともありませんでした。実はこれに似た話が歎異抄という書物に書かれていたので話したいと思います。

 

歎異抄の第9条のお話です。そもそも歎異抄って言う書物は唯円という方が親鸞聖人滅後に書いた書物です。

この唯円というのはもともと関東出身の僧侶でありまして縁あって京都の親鸞聖人のもとで念仏をともに歩んでいました。毎日毎日、親鸞聖人の後を付いてお話を聞いて参っていました。しかし、唯円は深い悩みを抱いていました。そこで意を決し、親鸞聖人に質問されました。「私は聖人の教えを信じお念仏をしております。救われるはずのない私が救われるわが身をありがたく思っております。しかし本当に信じているなら踊りあがってこの上もない喜びをかみ締めることでしょう。しかし、いつまで経ってもそこまでの喜びが沸きあがってこないのです。さらに娑婆が無明の世界と知りながら一刻も早く浄土へ参りたいという心が起こってこないのです。さらには私には阿弥陀様の心が届いていないのではないかと毎日毎日苦しむばかりです」そして聖人が答えられました。「私たちは愛憎の中でしか生きていけないのも事実、この世に執着しておる。だが、阿弥陀様はこのような哀れな私たちを見捨てはしません。このお浄土に参りたいという気持ちは煩悩のせいじゃ。だがそんなことはお見通しだ。この煩悩のある凡夫こそが阿弥陀様の救いの目当てだ。愛憎の煩悩に惑わされてお浄土に参りたいと気づきその身を嘆くより、そんな私を救うという阿弥陀様の大悲の頼もしさを仰ぎ我が往生は一定なりと思いとるがよい」と説かれました。

お念仏を唱えることによって躍り上がって喜ぶことはないかもしれません。しかし、今現在自分が見ているもの感じていること考えていること、その一つ一つの言動に煩悩という色眼鏡を通してみてしまっている私たちがいるのではないでしょうか。阿弥陀様は私たちのこの心をお見通しであり、そんな自分を嘆くよりも我が往生は一定なりと思いとり日々の日暮に感謝の念をこめて手を合わさせていただくことが大事なのではないでしょうか。

次回のほほえみ法話は41日に更新させていただきます。またお聞きください。よろしくお願いします。合掌。


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