如来のほほえみに出遇う

 

先日ある老人専用病院に知人のお見舞いに行って参りました。

その方は痴呆も進み、ちょっと目を離した隙にどこえでも行ってしまうので両手両足が縛られた姿でおりました。元気な頃は頭も良く、口も達者でしたが寄る年頃には勝てずに痴呆にかかってしまわれたのです。家族の看護にも限界があり、治る見込みも無くただ死を待つだけ。

 いずれ自分の姿とつくづく思いましたが人間は何のために生きておるのだろうかと真剣に考えさせられました。皆さん自分が痴呆になるとは思ってもいないでしょう。長生きしたいと思っておられるのでは無いでしょうか。長生きしてもこのようになれば人間とは生きるとは死とはと色々と考えさせられるのではないでしょうか。

 しかしこれが現実なのです。地位や名誉だと今は騒いでいてもそんな私も年をとって避けてはいけない死に向かっていかなければならないのです。

 自分自身この問題に直面したときに仏しか無いと思いました。如来の慈悲のなかで自分に与えられた宿業を生きるしかないのです。カッコをつける必要もなく、過去世より造り造ってきた悪業をしっかりと見抜いて下さってる。裸の自分を知って下さっている存在が阿弥陀如来様であります。悲しみに暮れながらもそんな自分を助けずにはおれないと誓われた慈悲にこめた人生を任せ往生浄土の道を歩まさせていただく。悲しく辛いなかでも如来のほほえみに出遇う。念仏させていただく。それ以外無いと知らされたのであります。

 

合掌