こちらは覚念寺ほほえみ法話でございます。

1128日は親鸞聖人が亡くなられた日であります。

今から749年前に聖人は命終なされたわけでありますが、親鸞聖人は《死ぬ》ということを、「娑婆の縁が尽きること」とおっしゃっておられます。すべては縁だとおっしゃるのです。この世に縁のある限りはこの世におらせていただきます。この世の縁が尽きて、あの世に縁ができたら、名残は尽きませんが、死なせていただきましょう。そこには何もとどこおるところがありません。事実のままを生き抜く聖人のお姿であります。まったく淡々として《死を思うこと帰するが如し》であります。しかしこれは死を願い、お浄土を恋しく思う厭世の情ではありません。ちょっとした病気でもするとすぐ《死ぬのではないか》と心細く思っているのが人間の本心であります。しかし、すべては縁のままにということは、望ましく思う心も、また、いとわしく思う心も、そういう人間の思いをすべて仏様にお任せして、事実のままに人生を歩ませていただく、これが聖人のお心であると思います。

私がどのように思おうとも、事実は厳然と私の前に現れてまいります。縁によって私に現れた事実を、事実のままに受け止め生死していく力が、お念仏の力であります。

聖人は《宿業》ということをいわれますが、簡単に言えば、宿業の自覚とは、この自分に与えられた「縁」をありがたくいただいていくということと思います。自分に都合のよい縁もありましょう。都合の悪い縁もありましょう。しかしそれらをすべてありがたく受け止めていく、目を瞑ろうと耳をふさごうと、私に与えられて縁は逃げていきません。逃げられもしません。ただ、受け止めるのみであります。ただ、「縁に生き縁に死す」という死生観に住していくのみであります。

現代は、死が突如としてやってくると思われています。人々はみな目の前のハエを追うことに汲々として、せわしく浮かれ歩いて、死ということを忘れきっております。

そんな現代においても、なお死はいつも人間に問いかけております。損か得か、儲かるか儲からないか、にくいとかねたましいとかばかりに追われ日を送っている私に、それで死ねるかと問いかけているのです。

私達は平気に自分は生きていると思っているのですが、それはまだ死なずに生き残っている、というに過ぎないのではないでしょうか。

日々、死を生きる、そのときに与えられて今日の生の麗しさ、ありがたさに、真実、掌が合わされるのであります。

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