こちらは覚念寺ほほえみ法話でございます。

昔の歌に

《朝顔はばかな花だよ 根もない竹に 命までもとからみつく》

というのがあります。朝顔が命をかけて頼りにしている竹、それは根のない竹であります。一陣の強い風が吹けばすぐに倒れてしまう、そんなものに命をかけて絡み付いている、しかし、朝顔は、そういうこととは知らずに、絶対に大丈夫だと思い込んですがり付いているのであります。

馬鹿な花だと読んでいる我々ですが、しかし、この朝顔の姿を見つめてみると実はそのまま、私たちの姿ではないでしょうか。我々は健康、財産、名誉、愛情などを頼りにして、あてにして生きています。しかし無常の風が吹き抜けるならば、頼りにしていたものは何の役にも立ちません。朝顔の竹と同じであります。我々の姿は因縁の仮の和合によって、仮に存在しているのです。いわば借り物で使用期限が来れば、いやといおうとなんと言おうと、終わっていかなければなりません。

考えて見ますと、病気になるとかならないとかは、誰かがそうさせているわけではありません。私自身の宿業のすがたであります。業道自然のことわりによって、病気になるべくして病気になっているのであります。誰が悪いのでもありません。誰かの責任でもありません。私自身が背負うべき責任です。これは逃げもかくれもできない一大事実であります。どれほど治療をしても、どれほどお金をかけても治らぬ病気はやはり治りません。仮に治ったとしても、また次の病気が押し寄せてきます。

ある病院の先生が「煩悩衰弱病」というのがあるとおっしゃられました。煩悩衰弱病とは、人は病気になると、地位も名誉も財産もなんだかいらないような気になります。不思議に執着がなくなって煩悩が衰弱していきます。しかし煩悩がなくなったわけではありません。ただ、衰弱しただけですから、病気がよくなるにつれて、煩悩がまた次第に鎌首をもたげてきます。そして、病気が全快したとたん、煩悩も元気になり,あいかわらず、地位や名誉やもろもろの煩悩に振り回される。これ誠に逃れようのない私たちの人生の悲しい姿であります。

そういう哀れな我々を御和讃に「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情を捨てずして,回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」とみつめてくださる。

苦悩の有情とはほかならぬ私自身であります。煩悩に覆われているあなた自身であります。そんな我々に仏様が苦悩の有情よと呼びかけてくださるその時,ただ、私達は「はい」とうなずかせていただく以外にありません。あなたを捨ててなるものかという如来の大悲心がわが心にしみこんでくださる時、ただ、お念仏申すのみであります。苦悩の有情をすてずにいてくださる。ありがたいことであります。南無阿弥陀仏

では本日はこれにて失礼致します。



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