皆様いかがお過ごしでしょうか。

今回は「盂蘭盆会」と題して法話をお届けさせていただきたいと思います。

世間一般、たいていの人は、念仏や信心が、何より先立つ大事なものだとは思っていません。そんなことには無関心であったり、むしろ無益なのは念仏のほうだ、と考えている人がたくさんあります。

だが、無関心な人も、念仏や信心など不必要だと言っている人も、みんな等しく、一番大事だと思っているのは『自分』なのでしょう。『自分』が一番大事だと思っていることは間違いないと思います。その大事な自分を守るために、毎日の営みに血眼のなっているのであります。

けれどもそうやっていることが、本当に自分を大事にしているのか、それとも、大事にしていると思いながら、実は粗末にしているのではないだろうか。

こういうお話しがあります。

ある村で、火事がありました。農家のお嫁さんが近くの田んぼで農作業をしている留守の間に出火したのです。『火事だ?!』という声に振り返ってみると、すでに我が家は火に包まれていました。ところが、家の中には生まれて間もない赤ん坊が寝かせてあったのです。お嫁さんは夢中で家に駆けもどるや否や、人々のとめるのも振り切って、火の海になった家の中へ飛び込みました。そして、赤ん坊の寝ている部屋にたどり着き、両腕にしっかり抱えて、表に出ましたが全身火だるまになって倒れてしまいました。人々が駆け寄って抱き起こしてみたら、お嫁さんがしっかり抱いていたのは《赤ん坊》ではなくて、《枕》であったということであります。

誠に悲惨なお話しであります。けれども、この話しは決して他人事ではありません。

私たちも皆、幸福という赤ん坊を抱えるつもりで、毎日、汗にまみれ、神経をすり減らして《火宅》と言われる生活の場に身を投げ込んでいるのであります。大事な自分を守るために、危険を顧みず、手段を選ばず、ひたすら幸福の追求に余念なしであります。が、抱えだすものは、果たして《本当の幸せ》の赤ん坊なのか、それとも《虚仮》うそいつわりの《枕》ではないのであろうか。盂蘭盆会の今日は、そのことが我が身に問われる日なのであります。

ここを大経には、「世人薄俗にして不急のことを諍う」とあります。世の人々は浅はかで、急がぬでもよい目先のことを、われ先にと争っているといわれているのですが、しかし初めから不急のことだと知っていて急ぐ人はありません。最初から《枕》と知って抱く人もありません。ところが、急がねばならぬと思っていることが、実は不急のことであり、《ほんもの》と思い込んでいるものが《にせもの》であることが問題なのであります。残念ながら、人間の目はそれを見通すことができません。

信心といい、念仏ということは、一番大事な自分を明らかにし、生きるということの根本を明らかにすることでありますから、急がねばならないのは後生の一大事、このこと一つであります。


南無阿弥陀仏


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